原作 |
フランク・ヴェデキント |
監督 |
ルシール・アザリロヴィック |
脚本 |
ルシール・アザリロヴィック |
キャスト |
マリオン・コテイヤール |
エレーヌ・ドゥ・ジェロール |
ゾエ・オークレール |
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配給会社 |
キネティック |
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読んでから見るか、見てから読むか
小説の映画化は数々あれど、「あそこが違う。ここが変」とつい重箱のすみをつつきたくなります。ここで紹介するのは、重箱のすみが気にならない作品限定。あくまでも記者の目を通してですが…。ただし、記者は本の虫。年間300冊以上の本を読み倒す活字中毒者をうならせた、本を原作としている映画を紹介していきます。
原作「ミネハハ」(単行本)
フランク・ヴェデキント(著)
市川実和子(翻訳) 映画『エコール』
緑濃い木々におおわれた場所。そこは高い塀に囲われて下界から遮断されている。そのなかで暮らす6歳から12歳までの少女たち。髪には学年で色分けされたリボンがゆれている。彼女たちはグループごとに小さな家に別れて暮らし、そこから中央の建物にダンスのレッスンと理科の授業を受けに通う。教師も若い女性。異性を知らない完ぺきな少女だけの世界の話である。
薄茶色く濁った水の映像から映画が始まる。ある日、その場所に6歳のアジア系少女・イリスが棺に入れられてやってくる。裸のイリスに年上の少女たちは、自分たちとお揃いの服を着せ、くつしたをつけ、茶色い編み上げの靴をはかせる。髪には一番年下の印となる赤いリボン。それから、イリスは森のなかの池に連れて行かれ、たくさんの少女たちに混じって泳ぎの練習をする。その池の水が薄茶色で、漠とした不安感をかもし出している。
冒頭のシーンから、この映画のキーワードは“水”なのかなと感じた。
上映の前に、嶽本野ばらさんによるトークショーが行われた。
「この映画は今年見た中でダントツ、ナンバーワンです」と語る野ばらさんは、乙女のカリスマとされるだけあって、この日もロリイタメゾンのレースのブラウスがよく似合っていた。
「ハリウッド映画が好きな人は『意味わかんねーよ』となるかも知れません(笑)。謎を解こうとすると、跳ね返されてしまいます」
会場は若い女性が多かったせいか、
「無理に感想を出さなくていい。十年先に思い出したときに、ああ、こういうことだったのかと分かるはずです」ともつけ加えた。
…なるほど。しかし、記者は酸いも甘いもかみ分けた年齢である。自分なりの答えを見つられるかなとほのかに期待。バッグにはここに来る途中、書店で購入したこの映画の原作本「ミネハハ」を忍ばせているし。
物語は静かに淡々と進む。独特なダンスのレッスン、生物の授業。森のなかでたわむれる少女たち。緑のなかの、白い少女たちの制服が清楚で美しい。小さな嫉妬、脱走、死といったエピソードが、ひそひそとささやくように物語に折り込まれている。純粋無垢な少女同士の低く短い言葉のやりとりにうっとりとしつつ、観客は神秘、未知への畏怖といった感情に支配されていく。
一番年上の少女たちは毎夜、暗い森の道を通り抜け、小さな劇場で踊りを披露する。観客たちの気配はするものの、客席は真っ暗で少女たちからどんな人々がいるのか見ることはできない。やがて、年長の少女たちがその森を出るときが来る。暗いトンネルを抜けて、明るい広場に出ると、キラキラと輝く噴水が画面いっぱいに映し出される。やはり…水で始まり水で終わる物語。
映画を見たその夜、本を読んだ。
意外にもこのストーリーは、作者の隣人であった老女の遺品のなかから見つかった手記とされている。でも、フィクションなのかノンフィクションなのかは、最後まで解き明かされない。しかし、物語の中盤で、「できるだけ赤裸々に事実だけを書いていこう」という記述を見て、この場所は昔本当に実在したのか…いや、しかし…と、不可解な気分に支配されてしまった。
本を読むと、映画は原作をもとに、監督の目と頭で再構築された作品であることがわかる。しかし、読み進むうちに、映画のさまざまなシーンが、一枚ずつの絵画となってフラッシュバックされる快感を味わえる。
本の内容で必見なのが、少女たちの舞台シーンである。映画では妖精(?)の踊りのみであっが、本ではストーリーのある劇となっている。農夫や王子といった男役もある。王子の結婚シーンもあり、それらを少女たちが演じる独特のエロチックさが、観客たちの目当てだったことが想像でる。
繰り返しになるが、映画の冒頭から“水”の予感がした。物語の終章で、「手記のタイトル“Mine-Haha”(ミネハハ)は、褐色の民の言葉で『笑う水』という意味であることをお伝えしておく」という文章を読んだとき、自分なりの答えを見つけられたのかという感触を持った。
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