初恋物語
転校先を訪ねて
意識はしていなかった。クラスに15人いる女子のうちの1人だった。
「中原さんが、9月いっぱいで転校することになりました」
小学5年生の夏休みが明けた2学期初日の朝、担任の先生が唐突に発表した。
そのとき僕は何故か、背中に冷水を浴びせられたような感覚を覚えた。
あと1ヵ月でお別れという驚きではない、それが何なのか自分自身でも分からなかった。
中原智代(もちろん仮名)さんは利発で誰にでも親切で面倒見がよく、クラスの女子の中心的な存在だった。
先生が智代さんの転校を発表して以来、僕は急に智代さんのことが気になりはじめた。智代さんの席は僕の席の右斜め前。授業中、ふと気づくと智代さんの横顔をじーっと眺めている自分がいた。
午前中だけの短縮授業の期間が終わって、クラスで席替えをすることになった。公平にクジで席順を決めた結果、なんと僕は智代さんの席と隣同士になった。
せっかく隣同士になったのに何の進展もないまま9月が終わってしまい、智代さんは転校して行った。転校して行く前日の放課後、教室で「お別れ会」をやった。涙はなかった。
それから間もなく、智代さんからクラス宛に手紙が届いた。先生はその手紙を教室の掲示板に貼り出した。きれいな字で書かれた手紙には、転校先のクラスですぐ友達ができたこと、秋の運動会を見に来ることが書いてあった。
封筒には智代さんの引越し先の住所が書いてあった。てっきり遠くへ行ってしまったと思い込んでいたけれど、隣町に引っ越していたのだった。
「智代のとこへ行かへんか?」
と言い出したのは、学級委員のタカシだった。タカシと仲の良いノボルが「俺、行く」と賛成した。
「行く奴は今日の放課後、校門の前に集合な」
そして放課後、校門の前に集まったのはクラスの男子ばかり8人。16人いる男子の半分が「智代に会いたい」といって集まった。ライバル多すぎやん…。
智代が引っ越していった街までは、大人になった今ならわずか4kmほどの距離だが、小学生が住所を訪ねまわりながら自転車を漕いで行くには遠く感じた。
「ここや」
陽が傾き始めた頃にようやくたどりついた場所は、同じ建物がズラリと並ぶ府営住宅の1棟だった。タカシがメモしてきた智代の住所と、壁面の住居表示を照らし合わせる。
「3号棟。ここに間違いない」
僕たち8人の男子は自転車にまたがったまま、ある種の達成感のようなものを感じながら、その棟を見上げていた。
(この中に智代がいる)
「何号室?」
「2階の…、あっ、あの部屋」
タカシが指差す。
自転車を降りて、その部屋を目指す。が、なぜか誰も先頭を行きたがらない。
「お前が行け」「お前が行け」と背中を押し合う。部屋の前まで来ると、今度は誰が呼び鈴のボタンを押すかでまた揉める。やっと誰かに呼び鈴を押させると、ドアの向こうから「はーい」という返事が聞こえた。
聞き覚えのある智代さんの声だった。8人は逃げ出したいような期待感を込めて、ドアが開くのを固唾を呑んで見守る。
「あらっ!」
智代さんは僕たちの顔を見て一瞬驚いたような顔をしたが、すぐ笑顔になった。僕は約1ヶ月ぶりに見る智代さんを、ちょっと綺麗になったと思った。
「どうしたん急に?」
下を向いてモジモジしている奴、まぶしそうに智代さんの顔を見つめている奴、智代さんがドアを開けて姿を見せたとき、なぜか反射的に階段を駆け下りた奴もいる。まるでピンポンダッシュみたいじゃないか。
「やぁ、久しぶり」
タカシがやっと言葉を搾り出す。それがキッカケになって、みんな口々に「元気そうやな」とか「変わってないね」と声をかけ、少しだけ話をした。
早く帰らないと暗くなる。
「それじゃ、元気で」
「うん、来てくれてありがとう」
智代さんは僕たち8人を、笑って見送ってくれた。僕たちはその笑顔を胸にしまいこむようにして帰途についた。誰も口を利かなかったが、なんだか誰もが幸せそうだった。
そうか、こいつらも…。
その後、運動会の日に智代さんを見かけた。見に来てくれたのだ。話そうと思えばできたのに、僕は照れくさくて避けてしまった。以来、智代さんと会う機会はなかった。
あのとき8人の仲間が、智代さんに会いたい一心で隣町まで自転車を走らせたこと。思い出がそうとう美化されていることを自覚しつつも、今も心に残る大切な思い出だ…。
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