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VIVA ASOBIST
vol.41:橋本明子
ボランティア活動の原点は「今何が必要か」を考えること
【プロフィール】
CRSU がん電話情報センター 相談主任
NPO法人血液情報広場・つばさ 代表
めんどりの集い 代表
【著書】
一本の羽をください翼がほしいから 骨髄バンクづくりにかけるある母の愛と勇気の記録(あいわ出版)
風の中のめんどりたち 忘れないで母たちの悲しみを(連合通信社)
橋本明子さんが代表を務める「血液情報広場・つばさ」のオフィスを訪ねた。
その日は分厚い雲が空を覆いつくし、激しい雨が止むことなくアスファルトを叩きつけていた。誰でも、気持ちが重々しくなるような悪天候。
初めてお会いした橋本さんは、そんな天候による物憂さなど一掃してくれるような、静かで穏やかな微笑みをたたえながら迎えてくれた。
橋本さんが、ボランティア活動に身を投じるようになったすべての始まりは、息子さんが病気になったことだった。1986年のある日、それまでまったく健康だった10歳の長男が突然、慢性骨髄性白血病と診断されたのだ。
「当時は白血病といえば不治の病。その病名を宣告されたときは、心臓を冷たい手でつかまれたような気分でしたね。やがて、入院治療をする中で、骨髄移植という治療法があることを知り、医師から『ドナーさえいればそうした治療法で治すこともできる』といわれたのです」と橋本さん。
しかし、骨隋移植を行うには、白血球の型が一致するドナーを探さなければならない。その適合率は、兄弟であれば4人に1人、他者なら数万分の一という低い確率だ。まさにそれは「海中に宝石を探すようなもの」だった。
その適合率を高めるために、アメリカでは骨髄バンクというものがあることを医師から聞かされた橋本さん。「それなら、日本でも」と思い、そのときから、日本骨髄バンク設立に向けての活動が始まった。
骨髄バンクを求める人々の代表となり、説明会を開催したり、署名運動を行ったり、日本中を奔走する日々。そんな尽力が実って、1991年に日本骨髄バンクはやっと動き出す。ところが、その頃には息子さんは手の施しようがない状態になっており、骨髄バンクでドナーが見つかる前に、1992年、永眠。母に「よくやったんじゃない」という言葉を遺しながら…
子供を失った痛み、怒り、悲しみは当事者でない限り、理解し尽くすことは難しいに違いない。しかし、橋本さんはその中にあって、現在に至るまでボランティア活動を続けてきた。
「患者や家族にとって一番欲しかったのは何かと考えてみると、痛みを語り合える仲間と、わかりやすい情報でした。特に、血液がんは、非常に難しい病気ですし、インターネットの時代になって多くの情報が流出するようになったとはいえ、間違った情報もたくさん流れています。それを整理する必要があると思ったのです」
そこで1994年に立ち上げたのが、血液情報広場・つばさである。つばさでは、最新の医療事情を伝える情報誌をつくったり、フォーラムを開催したりして、定期的によりよい治療を受けるための情報提供をしている。
1997年には、血液がんと小児がんの患者と家族を対象とした、電話相談口を開設した。
「これまでに5000件を超える電話相談を受けて深く感じることは、こちらがいくら適切な情報を伝えようと思っても、人生の危機に陥って、絶望し動揺している患者さんは、それを受け止め切れないということです。そこで、大切なことは、相手の状況をとにかく認め、あふれるような不安や悲しみを聴き取ることです。そうすることで、相手の魂が鎮まって、心に少しでも余裕が生まれ、治療説明が耳に入るようになったらいいなと思いながら、いつも電話を受けています」
このつばさの電話相談口がモデルケースとなり、今年には、全国規模のがんコールセンターが発足するということだ。
取材中もしきりに電話が入る。当人が、家族が重篤な病気を抱えての切羽詰った内容。声を上げて泣き出す相談者も少なくない。長ければ1本の電話が40分を越える時もある。
淡々と的確な情報を伝え、時には黙って話を聞く。存分に泣いたり、聞いてもらったりすることで相談者は束の間ではあっても心の平静を取り戻していく。
「首がねー、曲がっちゃったのよ」
11年休むことなく電話を取り続けてきたから、と橋本さんは笑う。
橋本さんがほかにも代表をつとめているのが、1993年から定期的に開催している「めんどりの集い」である。ここでも、語り合い、分かち合うことが中心だ。
「めんどりの集いは、子を失った母たちの会です。子を失った原因は、病気、事故、自殺など様々ですが、その衝撃は想像がつかないほどで、残された母は深い悲嘆の底に落ちてしまいます。すると、周囲の人とそれまで同様の交流を続けられなくなり、自らの中に孤独感を抱えてしまうのです」
それが、同じ経験をした人たちの間に座り、話をして涙を流し、うなずき合うことで、自分は孤独ではないという意識が芽生えてくるのだという。
このように、多岐にわたってボランティア活動に身を捧げている橋本さん。しかし、橋本さんは言う。
「私は、何もボランティア団体を作ろうと思って活動してきたわけではありません。自分がこうしたい、こうありたいと思ったこともこれまで一度もないのです。ただ、今必要だなと思うことを続けているだけです」
この気持ちが、エネルギッシュに活動を続けている原動力になっているのだと実感した。
さて、つばさの会やめんどりの集いの代表のほか、橋本さんには、もう一つの顔がある。それが、意外なことに「蕎麦屋のおかみ」なのだ。ご主人が蕎麦屋を経営しているので、手が空いているときには、店を手伝うようにしている。
こじんまりした店舗、立ち食いソバ店に近い値段設定だが、実は吟味した材料を使い、ソバは手打ち、揚げ物は揚げたてを出す。添加物は一切加えない。難しい病気と向き合っている人たちとのかかわりの中で「食」の大切さをしみじみ感じたればこそのこだわりなのだ。特にそれを謳っているわけではないが、わかる人にはわかる。
「ここで飲むと悪酔いしないんだよね」
お客さんの最高のほめ言葉だと橋本さんは心中、誇りにしている。
また、多忙な日々の中、いちばん癒される時間は、家で2匹の猫と遊んでいるときだという。実際、猫ちゃんの話をしているときの橋本さんは、終始目尻がゆるんでいるように見える。
「今必要なこと」にまい進している橋本さん。その日の天気のように暗雲がたちこめる患者さんや家族の心に、一筋の光を照らして好天に向かわせるのが自らの役目だとする、橋本さんの声は限りなく柔らかく、優しい。
「季節のそば ますや」
新宿区高田馬場 1-17-17 新坂ビル1F
http://tachigui.web.infoseek.co.jp/m.html
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読み物 : VIVA ASOBIST 記:白井 美樹 2008 / 06 / 01