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VIVA ASOBIST
vol.51:木村大作
映画史に残る名キャメラマン、監督へ!
【プロフィール】
監督・キャメラマン
1939年7月13日生まれ。
1958年 東宝撮影部に入社
1973年 映画『野獣狩り』で撮影監督のデビュー。
2009年 映画『剱岳 点の記』で初監督のデビュー。
新田次郎作品の中でも評価の高い『剱岳 点の記』が映画化され、一足先に試写会にうかがった。浅野忠信や香川照之、松田龍平、宮崎あおいが熱演しており、素晴らしい物語に仕上がっている。また、剱岳の壮大な映像に感動した。監督の木村大作さんは黒澤明の時代からキャメラマンをやっている筋金入りの映画人で、今回が初の監督となる。その木村さんと短い時間ながらお会いすることができ、とても素晴らしい話をうかがうことができた。
黒澤さんもピント送りの腕を認めてくれた
木村さんが映画の世界に入ったのは、高校を卒業してすぐの18歳。就職活動で11カ所を落ちて、東宝株式会社を受けたら、たまたま入れたという。そこで回 されたのが、撮影所の撮影助手。最初に担当したのが黒澤明さんの『隠し砦の三悪人』だ。1958年に公開された名作で、2008年には樋口真嗣が監督、松本潤、長澤まさみ、阿部寛という豪華スタッフでリメイクもされている。羨ましい限りのスタートに見えるが、
「最初が黒澤明さんですよ。でも、そこで映画が好きになったかというとそうでもなくて、10年間辞めよう辞めようと思ってた」
と、ばっさり。撮影助手は、スイッチを入れたり、担いだりするだけで自分の創作意欲を出せないからだという。それでも、フォーカス(ピント送り)が上手く、黒澤明さんにも認められていた。
結局辞めずに続けた理由を聞いたが、ない、とのこと。木村さんは27歳の時に東宝撮影所の組合の委員長をやっていた。背広を着て、鞄を持ち、本社へ通っていたそうだ。その時の相手は、松岡功氏(東宝株式会社名誉会長)のお父さんである松岡辰郎氏。しかし、
「1年終わって、組合民主主義はもういいと。冗談じゃねぇと、辞めた」
と、さばさばしている。そして、ある日突然
「俺が進む道は、映画で食っていくしかないんだな」
そう決意したそうだ。本当にきっかけもなにもなく、そう思い立ったらしい。そうすると、撮影助手をやっているなら、キャメラマンを目標にしようということになった。それから、がむしゃらに働き出したのだ。
そして、5年後の33歳で独立。その時代、キャメラマンが一本立ちできるのは40歳くらいが普通だった。なみいる先輩を15人くらい追い抜いて、抜擢されるようになったという。当然、いろんな軋轢があったそうだが
「その時から、今みたいな調子でわーってやってたけどね」
そう豪快に笑う木村さんだが、抜擢された理由もきちんとある。
「組織で映画を作っている時代で、年間に80本作っていたんだよ。そうするといろんな監督から、風景とか、車の走ってるシーンとかを撮ってきてくれって言われるんだよ。30歳のころ、俺はそれを一手に引き受けてた。だから、監督達には可愛がられたねぇ」
もちろん、タダでさえ忙しい撮影助手。当時のがむしゃらぶりは想像を超えるはず。この努力がいち早いキャメラマンデビューにつながったわけだ。
「その後は、須川栄三さんと2本やったんだよね。次は岡本喜八さんだよね。『青葉繁れる』とか『吶喊』、『姿三四郎』、『ブルークリスマス』とかをやったよ。次は森谷司郎さんという監督とは『八甲田山』ね。あと『海峡』とか、亡くなるまで俺を使っていたよね。さらに深作欣二さん(監督)になって、その後は降旗康男 (監督)さんの作品に携わったね」
そうそうたる人達と仕事をしている。彼らが木村さんを指名しているのだ。
「あくまでもキャメラマンっていうのは待ちの商売だよ。企画をやったり本を書いたり、自分で攻めていくわけにいかないんだよ。監督やプロデューサーが指名してくれるしかないわけですよ」
監督以外にも、「八甲田山」で一緒に仕事をした高倉健さんとは長いつきあいになる。
「健さんとの映画の歴史の中で、自分は成長していってるんだよ」
そして監督へ「『剱岳 点の記』を映画にしたいから、俺はやった」
キャメラマンとして伝説的なキャリアを残した木村さんが監督になったきっかけは、偶然のできごとだった。
「自分は暇なときによく撮影旅行に行くんですよ。日本海側の風景、それも冬が多い。厳しいところが好きなんだよ。厳しいところにこそ美しさがある。これ映画 の中でも台詞で使ってるけど。僕の実体験なんだ。人生も同じだと思ってる。生き方として、いろんなものがあるけど、やっぱり厳しいところを通り過ぎない と、何かは出てこないね。楽なほうは楽だけど、そのままだよ人生なんて。だから、楽な道と厳しい道があったら、俺は厳しいほうを選ぶということですよ。それを通り過ぎた後に何かがあるんだろうと」
そんな木村さんは、06年の2月に能登半島にプライベートの撮影旅行に行った。
「向かっているときも左側に見えていたはずなんだけど、その時は日本海を撮ることしか考えてなかった。10日間頑張ったのだけどぜんぜん撮れなかった。そんな状態なので東京に帰ろうと北陸道を走っている時、右側に剱岳がすきっと見えていたんだよ。それで、いっぺん拝んで帰ろうと寄ったんだ」
劔岳に向かった木村さんは、車の中に本があったことを思い出す。
「『八甲田山』が終わった4年後、81年に『劔岳 点の記』の単行本が出て、読んだんですよ。その時はキャメラマンで若かったので、こんなの絶対映画になん ないよなぁ、と思ってそれきり忘れてたんですよ。そうしたら06年の1月に違う本を買いに行ったときに、また新しい文庫本が出ていたんですよ。それを買って車に放り投げていたのを忘れてて」
剱岳のふもとで、『劔岳 点の記』を読むという贅沢。そして北アルプス、3000m級の立山連峰を前に、この作品を映画にしたいと思いがつのる。
「『劔岳 点の記』に描かれているのは、ただ地図を作るためだけに、与えられた仕事を黙々と献身している人達だよね。今は、それが一番大切なことだと思う。俺は、ただ、映画を作るためだけに、50年やってるわけです。俺くらい映画を作るのに献身しているというのは、日本の映画界広しと言えども、いないん じゃないかなぁと思ってます。それが、柴崎芳太郎(『劔岳 点の記』の主人公)とかぶってきたということです。ようするに、この映画をやれば、自分の生き 方を全部やれるなと思った」
木村さんは、劔岳の大自然が持つすばらしさ、美しさ、厳しさ、怖さなどを、映画にしたかった。しかし、頼めそうな監督が思い浮かばない。ドラマツルギーで 言えば、誰も病気にならないし、死なない。悪人も出ない。基本的に善人ばかりの話だ。そのため、映画作りの人達には、映画化できないといわれたらしい。
「他の監督に頼むとすると、ドラマを変えて「うわー死なないでー」とかにするだろう。それが、まず嫌」
その言葉通り、『劔岳 点の記』にはプロのシナリオライターが入っていない。木村さんがシナリオを手がけ、監督もやっている。撮影予想期間は2年、そのうち200日くらいは山に入る必要がある。いちばんの心配事は、この過酷な撮影をやってくれる人達が揃うのかということ。それでも、やる価値があると思い、 チャレンジすることに。
「しょせん人間は、自然の一部。現代は、人間様がいて、その対面に自然があるような感覚が充満してるけど、よく考えたら100年しか生きられないわけだ よ。俺はもう70歳だよ。いつ死んでもおかしくない。人生の終末を歩いていますよ。これは嘘も隠しもなくね。そういうときに、自分の映画人生を、この映画 だったら賭けられるとおもったわけです。監督をやりたいから、やったんじゃないんだよ。『劔岳 点の記』を映画にしたいからやったっていうところで。俺にとっては、これは大きな違いだよね」
「浅野さん、あなたにどうしても柴崎芳太郎をやってもらいたいのは、僕の勘です」
もう有名な話かもしれないが、木村監督は俳優を全部勘で選んでいる。
「香川(照之)さんとは、『赤い月』(03年)の時からやってるけど、浅野(忠信)さん、仲村トオルさん、松田龍平さん、役所広司さん、宮崎あおいさんは全部初めてです よ。たとえば、浅野さんは、あるとき本屋に入ったら、あの人が表紙の本があったんですよ。それ見て、これは柴崎芳太郎だと思った。浅野さんに頼みに行くと きも、申し訳ないけど、あなたの過去の映画はほとんど見ていない、と正直に言って、そこから始まったわけですよ。あなたにどうしても柴崎芳太郎をやっても らいたいのは、僕の勘です、と。そういうことなんですけど、やっていただけますか、と」
ストレートすぎるにもほどがある。しかも、帰るまでに返事をするように迫ったそうだ。通常、役者が断るときは、帰ってから考えますというのが常套手段だ が、木村さんはそれを許さなかった。本来あり得ない交渉だが、結果はYes。それで、他のキャストの話もスムーズに進むことになる。
「全部自分の勘ですよ。勘っていうか、勘だねぇ(笑)。僕はすべて勘で生きてるよ。理屈で生きた覚えはないんです。だから、すべてのことに対してものすごい結論が早いですよ」
後悔したくないからそういう風に行動し、後悔した記憶もないという。
「最後の最後まで頂上に登らせない」そのリアリティが生む感動
『劔岳 点の記』は劔岳を登るだけの話ではない。通常の登山ではなく、測量のために行く人達の物語だ。柴崎芳太郎は27カ所登っているが、木村さん一行も22カ所登っている。しかも、全部ストーリー通り順番に撮影する“順撮り”をしている。
「順撮りしたのは、僕がいちいち細かく言う必要がないから。ようするに、明治40年の柴崎芳太郎と宇治長次郎の行動のままに、日にちまでだいたい合わせて 撮っているわけ。明治40年の柴崎さん達は草鞋の旅だよ。俳優さんが移動するときは登山靴に履き替える。それを考えると、当時の人達は我々よりもしんどい 思いをして、我々よりもものすごく速いスピードで行ってる。すると負けたくないっていう意識が出てくる。東京で考えていた、こういう芝居しようっていうの は、全部取れていくよね。だって、あんなしんどいときに芝居をしてる余裕はないよ。香川さんは、山が芝居させてくれるって言うしさ。浅野さんも、自分はす でに柴崎芳太郎なんだと言ってた。それが、ひとつの利点。後は、たとえば途中で俳優さんが足を折りましたと。そうしたら、皆さん頑張ってください、と涙の ひとつも流せよ、と。その寄り(シーン)は撮って、それで終わりだと。一人、山岳会で、膝を痛めた俳優がいたでしょう。あれはリアリティなんだよ」
撮影は想像通り、トラブルやつらいことの目白押しだった。しかし、俳優達には「危険で過酷で毎日歩くだけだ」「この映画は無理をしなければ撮れない。だか ら、無理をするぞ」と最初にきちんと宣言している。俳優も雑魚寝で、マネージャや付き人は禁止。私物は自分で担ぐように言ったそうだ。結局俳優達に大きな 怪我はなかった。しかし、スタッフの一人が、落石で脳挫傷になってしまった。08年の6月19日、向かい側の峰から落ちてきた石が、岩に当たって空中を飛 んで反対側の撮影陣のところまで飛んで来たのだ。一命を取り留めたものの、木村さんは撮影を中止しようと考える。しかし、怪我をしたスタッフの家族や俳優 達が「最後まで妥協なく、やってほしいと」と詰め寄ったという。そして、最後のシーンを撮り終えたのだ。
思い出深かったシーンは、やはり劔岳の頂上という。
「延々と2年間さ、あちゃこちゃ22カ所の山に登った。俳優さん達も劔岳の天候がいいときに、ばっと登りたい時もあったでしょう。でも、最後の撮影まで登らせ ない。撮影で、直前まで行ってすごすごと引き返してくるシーンがあるけど、リアリティで戻ってくる。遊びでも行かせないからね。そういう形で、みんな我慢に我慢を重ねて、最後に登ったわけですよ」
神々しいまでのシーンは一切のCGなし。本人達の感動の演技も、木村さんの話を聞くと、ナチュラルな感情表現のような気もする。お涙ちょうだいのストーリーではないが、クライマックスで、登り切ったときのシーンは感動を覚える。ぜひ観ていただきたい。
最後に気になるところを聞いてみた。
「この映画を撮る前に、ただ一度の監督だって言ったんだよね。俺は、そういう気持ちでやってた。その後、全国各地の試写会を回ったら、反響が多いわけです よ。そういうの見てるうちに、人間って弱いから、ちょっと欲が出てきたね。終わりって言ったんだけど、もう1本くらいいいかなと思ってるところもあります よ」
ファンとしてはうれしい限り。1本と言わず、何本でも可能な限り木村監督の作品を楽しみにしたい。
『劔岳 点の記』
【STAFF・CAST】
原作/新田次郎「劔岳 点の記」(文春文庫刊)
監督/木村大作
脚本/木村大作・菊池淳夫・宮村敏正
柴崎芳太郎/浅野忠信
宇治長次郎/香川照之
生田 信/松田龍平
柴崎葉津よ/宮崎あおい
小島烏水/仲村トオル
古田盛作/役所広司
公式サイト:http://www.tsurugidake.jp/
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(C)2009『劔岳 点の記』製作委員会
2009年6月20日(土)公開
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読み物 : VIVA ASOBIST 記:柳谷 智宣 2009 / 06 / 19