トップページ > 読み物 > VIVA ASOBIST
VIVA ASOBIST
vol.53:長谷川馨
「なんでも興味があるんですよ」バーテンダー界の重鎮の話を聞け!
【プロフィール】
社団法人日本バーテンダー協会
国際バーテンダー協会加盟 名誉会員 長谷川馨
カクテル&わいん KIYOMI
東京都品川区大井1-10-1
バーの大きな醍醐味のひとつは、バーテンダーと会話をすることだ。ただでさえ、普通の人とは異なる人生を歩んでいるうえ、長い年月の経験を積んだバーテンダーの話はとてもおもしろく、酒が進む。思いがけない縁で、半世紀以上ものキャリアを持つ超ベテランのバーテンダー・長谷川馨さんにお話を聞くことができた。
高校を卒業して銀座に突撃。迷わずバーテンダーになる
長谷川さんは日本バーテンダー協会(NBA)の重鎮だ。京浜支部の支部長を務めており、20年前には関東本部の理事と全国理事の重責を担っていた。昨年その任を降り、名誉会員のアドバイザーとして後進の育成に関わっている。関東地方は通常1都6県だが、バーの世界ではこれが1都10県。長野県、静岡県、山梨県、そして沖縄県も含まれているのだ。全国最大規模の銀座支部も抱え、支部数は28。NBAが頻繁に開催している勉強会や大会の運営に関わってきた。『TVチャンピオン』(テレビ東京系・終了)というテレビ番組でバーテンダーが登場する際には、問題の作成から審査員も担当している。全国理事になったときには技術研究局長も兼任し、全国大会のマニュアルを作ったこともある。
長谷川さんは昭和14年生まれで、群馬県の館林市で育った。お酒との出会いは18歳のころだという。西暦で言えば1957年。前年の経済白書で「もはや戦後ではない」という言葉が使われた時代だ。
「やっぱり高校時代、生意気だったわけですよ。その当時、街に1軒しかなかったバーへ友達と一緒に繰り出したんです。バーテンダーを初めて見て、やっぱり格好いいなぁと感じました。卒業したら、バーテンダーになろうとすぐに決めましたね」
実家は料理屋を経営していたが、世間はバーテンダーに対して偏見を持っていたという。今では大学など学校を卒業して、直接バーテンダーになる人が多いし、女性も増えている。当時は、チンピラの小間使いのような感覚だったのだ。もちろん、両親にそのまま言うわけにはいかない。
「バーテンダーになるとは言わず、コックをやることにしました。料理も出していたので嘘ではない(笑)。家は兄弟が8人と多く、私は7番目なので好きにしろという感じでしたね。そこまで面倒を見られなかったんじゃないですか」
とはいえ、行きつけの店もコネもない18歳。どうするのかと思いきや、バーのメッカである銀座へ突撃する。
「昭和33年に卒業したら、そのまま銀座に向かい、歩きながらバーテンダー募集の張り紙を見つけ、見習いで入りました」
もはや、映画の中のような話に聞こえる。長谷川さんの度胸もさることながら、即雇う店側も今では考えられない感覚だ。
「51年前ですから、銀座とはいえビルがなかった時代です。私が働いたのは銀座7丁目のクラブでした」
今では一般的な職場になったショットバーだが、当時は酒の種類は少なく、超体育会系のようなイメージがある。
「確かに、我々がバーテンダーになった時代には、それほど洋酒の種類がありませんでした。今から比べると、10分の1くらいじゃないですかね。ただ、マティーニとかマンハッタンなどのクラシックカクテルは、その時代からありました。厳しいのはどこの店でも同じでしたね。当然、店に入ったら、毎日瓶やグラスを拭いていました。今でも、銀座の古いバーではやっていますけどね」
それから2年間ほどの見習い期間を過ごした後、数寄屋橋にあるショットバーに移った。そしてその際、そのクラブで働いていたチーフと若いバーテンダー数名が、まとめて移籍したという話には驚いた。
「チーフが数寄屋橋の店に行くというので、僕ら小僧は一緒に引っ張っていかれるんです。今はそういうことはないんですが、当時は当たり前でした。移った先の店長がANBA(全日本バーテンダー協会)の会長で、その次に移った店では、JBA(日本バーテンダー協会)の最高顧問と出会いました。そこで、JBAに入ったんですよ」
当時は業界が狭かったのだろうか。それとも、長谷川さんの運もしくは人徳なのだろうか。あまりにできすぎな出会いのような気がする。そんな人達の中で長谷川さんはめきめきと腕を上げ、20歳のころに銀座5・6丁目の班長を任される。JBA会員のところを回る集金係のようなものだったと言うが、ともかく肩書きが付いた。その後、22歳にはチーフバーテンダーに。チーフと言えば、仕入れや経理もやるマネージャーのようなもの。当時はみんな、そんな若さでのし上がれたのだろうか?
「一緒に動いた人の中には年上もいましたが、チーフになったのは私が先でした。要領がよかったんですね(笑)。勉強もしましたけど」
笑い飛ばしながらも、最後に付け足した一言に重みを感じた。たぶん、現代の我々の「勉強」とは質も量も違うのではないだろうか。しかし、長谷川さんは、そこに関して多くは語らなかった。
無一文で結婚・独立、そして新店舗のオープンへ
「若いながらも経営を覚えたので、24歳で独立しました。昭和39年、東京オリンピックの時です」
いきなり、独立の話が出て仰天した。確認したところ、やはり銀座に出てきてから6年しか経っていないという。23歳の時に結婚し、1年後には独立しようと心に決めた。昭和35、36年はカクテルブームが到来し、バーテンダー全盛だった時代だ。
「銀座の店に大井町から通ってくれているお客さんが、50万円で売りに出ている店があると話を持ってきてくれました。もちろん、そのころは開店資金などはなく、そもそもその前に結婚した時も一銭も持っていませんでした」
一銭も持たずに結婚、一銭も持たずに店を出す。その極意は是が非でも聞き出さなければなるまい。
「結婚式の時は、両親が実家で式を挙げるなら資金を出してやると言ってくれたので頼りました。お店をやるときは親父のところに行き、実は100万円のお店があって50万円貯金したが、あと50万円足りないんだけど貸してくれと言いました」
いい親父さんだ…。とはいえ、長谷川さんはここからもスゴイ。50万円借りたので、月に2万円ずつ返済すれば2年ほどで終わると計算したようだ。ちなみに、当時のチーフバーテンダーの月給は1万6000円、見習いの月給はなんと3800円。大卒の給料で1万円くらいの時代だ。ざっと20倍すれば1000万円という感覚だろうか。
「最初の店は、カウンターに8人座れる小さな店でしたが、オリンピックの時で調子は上々でした。親から借りた50万円は1年で返してしまいました。親父は喜んでくれましたよ。そこで2年間続け、もう少し大きなお店に移ったわけです」
予定の倍のペースで返済とはすさまじい。カクテルは150から200円くらいで、サントリーのホワイトが1杯70円の価格だが、毎日満員だったとのこと。年中無休で4年間くらいは休みなし。開店は18時で、法律で決まっている24時で閉店。素晴らしく充実した日々だったのだろう。長谷川さんの口調はまったく苦労を感じさせない。次の店に移る資金もたんまり稼いだのかと思いきや、
「店を移るときもお金はいくらもなかったですね。大井デパートの店舗だったので、その社長と話して、お金がないことを伝えると、銀行の支店長を紹介してくれたんです。そうしたら支店長が、君に賭けてみるよと200万円貸してくれました」
最初の店は、もともとの店名通り『まき』。これは、古いお客さんを逃がさないため。2軒目は『清美』と名付けた。長谷川さんの奥さんの名前だ。3軒目となる現在の店舗名も『KIYOMI』となっている。当時は女性の名前を付けたバーが流行っていたと長谷川さんは言うが、奥さんへの愛情が感じられる。
昭和41年にオープンした『清美』も大繁盛。昭和55年には、今の店舗が入っているビルのオーナーから、喫茶店が店をたたむのでバーをやらないかと話を持ち込んできた。店の改装から権利金から、何千万かかかる。そこで、またもは長谷川さんの豪腕が炸裂する。
「ビルのオーナーにいくらでやらせてくれるのと聞きました。僕は1銭も値切らないから、ずばりその金額を言ってくれ、と。駄目だったら、その場で断るからと言いました」
1銭も値切らないのは、おおらかなのではなく、非常にシビアな提案だ。やるかやらないか、白か黒の一発勝負。駄目だったら即話が流れるというわけだ。当然相手は最初からぎりぎりの金額を出さざるを得ない。学ぶところの多い交渉術だ。
「そのころ、近くの銀行の支店長や幹部が毎日のように飲みに来ていました。そこで相談したら、また簡単に融資を受けられたんです。羨ましい限り? それまでの借金が1回も遅れずにぴしっと入っていたからです。でも、1日でも返済が遅れたら駄目なんです。借金は余裕を持って借りないと駄目」
3件目の店名は『サパークラブ KIYOMI』とした。ホステスは置かず、食事も出して朝まで営業した。店の端にステージを設置して、弾き語りもする。これがまた時代の流れを捉えて、スマッシュヒットを放つ。キャバレーが全盛を迎えていたのだ。キャバレーとは、巨大な店舗に150人くらいのホステスとフルバンドが1、2バンド入り、男性も踊れるようなナイトクラブのこと。今では考えられないような規模のキャバレーが、大井町だけでも4、5軒あったという。
「キャバレーは12時で終わるので、そのころに何百人もの人が溢れるわけです。バブル経済の時だったのでタクシーも拾えず、目立っていたウチに入ってきたんです。12時になると満席になっていましたね」
父と子が「共演を果たした特集記事」
狭いところで働いているから、遊びは太陽の下でないと
長谷川さんは昭和14年生まれで、今年70歳になる。お会いしてびっくりしたのだが、足にギブスを付けて、松葉杖をついている。どうしたのかと聞くと、スキーで怪我をしたとのこと。
「スキーは20年以上やっています。なまじっか自信があったので、一番上から上級コースを滑っていました。ところが、その日は暖かかったので下のほうがぐちゃぐちゃで、そこに突っ込んだら怪我をしてしまいました」
このお年でスキーの上級コースとは恐れ入る、と思いきや、スキーどころではなかった。
「僕はなんでも興味があるんですよ。ゴルフも御殿場の太平洋クラブの会員権を買って、ブームが来る前からやっていました。富士山から槍ヶ岳まで山登りをやったり、海専門ですが釣りもやったり、水上スキーもやりましたね。最近はウォーキング。日本橋から京都まで歩こうというイベントを主催しています。1回目は日本橋で集合して川崎まで歩いて、電車で帰ってくる。次は川崎で集合して保土ヶ谷まで行って電車で帰る、の繰り返し。先月は磐田まで新幹線で行ってスタートし、半分を越えました。来年踏破したら日光街道をやりたいですね。狭いところで働いているから、遊びは太陽の下でないとね」
すごいバイタリティーだ。この調子で成功街道をまっしぐらに突き進んできたのだろう。とはいえ、話に出てこなかった苦労話も、さぞ多いのでは?
「特別儲かったわけでもないですが、特別苦しんだということもありません。こういう商売っていうのは、絶えず浮き沈みがあるんです。いい時に見栄を張って遊びすぎた人間はみんな途中で消えています。僕はいい時も一定、悪い時も一定」
夜の商売なのに堅実な哲学を持っている。バーの世界は紆余曲折だ。長谷川さんが独立したころはカクテルブームだったが、その後ボトルキープ全盛の時代が来る。バーテンダーの多くはそこでいなくなってしまったのだ。そんな中、順調に営業を続ける『KIYOMI』の秘密を垣間見たようだ。
現在、長谷川さんはフレックスで出勤している。『KIYOMI』のチーフバーテンダーは息子である長谷川信介さん。オーストラリアのカクテルスクールで1年間学び、銀座で10年キャリアを積んだベテランだ。
信介さん曰く、
「若いスタッフだけだと重みがないんですが、怪我していてもマスターにいてもらうだけで、お客さんは満足するし、僕たちも締まる」
よくわかります。キャリア51年の長谷川さんが迎えてくれるだけで、自分の居場所に帰ってきた気になる。このまま、末永くバーカウンターの向こうで、ほほえんでいてもらいたい。
Tweet |
読み物 : VIVA ASOBIST 記:柳谷 智宣 2009 / 08 / 24