「怖い」の解剖新書
世の中には「怖い」ものを、エンターテインメントとして楽しめる人が一定数いる。
例えば、ジェットコースターのようなスピードや回転をワクワクして楽しめる人もいるし、お化け屋敷やホラームービーは常に人気がある。怪談や怖い話はこどもたちのお泊り会の定番だし、心霊スポットへの探検はいつの時代も若者たちを魅了する。
そして一定数、上記のすべてが「怖い」、私のような人もいる。

「怖い」という感情はどこから来るのか。
私には「怖い」と思うものが多すぎる。水中の中にある人工物が怖いし、お化け屋敷もホラームービーもホラーゲームも怖い。ジェットコースターも怖いし、バンジージャンプなんてやろうと思う人の気が知れない。
でもこれは、「つくられたもの」に対する恐怖なのかもしれない。自分の頭の中で怖いイメージが膨らみ、余計に怖くなって固まってしまう。
自分が怖いもの見たさで少しずつ垣間見てきた狂気や恐怖の映像をたくさん脳にストックしているから、ちょっとしたことでそれらがイメージとして膨らんでますます怖くなる。あとから後悔するなら、のぞかなければいいのに。
時折飛び込んでくるCMなどの怖いゲームや映画の情報に腹を立てるほど怖いものが嫌なのに、でもどこかで気になってみたくなってしまう。でも、ちょっとでも容量を超えると、耐え難い恐怖に震えてしまうのだ。

「怖い」は「びっくりする」から苦手なのでは、と指摘を受けたことがある。
確かに、急降下したり突然出てくる怪異に心臓が飛び跳ねるような思いをすることがとても苦手だ。自分が想定しないことが突然起きるとき、人は怖いと感じるのかもしれない。
一方で、こういった人工的なエンターテインメント要素のあるものは怖くないが、他人が「怖い」という人もいる。「何を考えているのかわからない」「結局一番怖いのは生きた人間」という意見。「答えを知るのが怖い」「相手の反応が怖い」というような表現もある。
この両者に共通点を考えてみる。
通常の自分ではありえないスピードで何かが起きる。
起きるはずがないというイベントが突如発生する。
自分のコントロールの利かないものが自分の人生に踏み込んでくる。
自分のキャパシティを超える何かが、自分に影響を与えてくる。
「怖い」というのは、「想定外」なことに対する、構えなのかもしれない。自分の枠、自分の容量を超える何かをもたらされるということが「怖い」正体なのかもしれない。
そう考えると、「怖い」というのは克服できることに思えてくる。
つまり、それが起こることさえも、自分の「想定内」に収めてしまえば、「怖い」と感じることがなくなるのではないかという仮説。
また何度も同じことが起きると私たちの中にはそれが現れる、そのことが起こるルールが生まれてくる。「慣れ」は「怖さ」への最大の薬なのかもしれない。

「怖い」と思うことは人それぞれ違う。ある人には怖くもなんともないことが、他の人には怖いこともある。そして「怖い」と感じることは、未知の世界の入り口を警戒していることでもあり、生きていることを感じさせてくれる一つの要素でもある。
生きている中で様々な「怖い」を抱える人は、未知の世界の入り口をたくさん見つけられる人でもあり、毎日を冒険のように生きているのかもしれない。





