願いの叶う器
新年になり、初詣に多くの参拝客が訪れるこの時期。
神社では多くの人がおみくじで新年の運を占い、絵馬に願いごとを書き、それぞれの社(やしろ)に手を合わせ、仕事のこと、学業のこと、恋愛のこと…とそれぞれの「担当神さま」に御頼みする。
神社でなくとも、「神と対話」をする祈りや日々の感謝も含め、人々は常日頃から「どうか~でありますように」「~してください」「お守りください」と、神や人間より上だと考える存在に祈ったり願ったりする。

叶えたいという願い、思い、というのは、自然と人の心の中に湧いてくるもので、それは悪いものではない。時として欲やエゴが強い願いもあるが、生きていれば当然、「こうなりたい」という思いや「絶対に叶えたい夢」などが生まれてくるし、またそれが人生において目標となり生きる指針となることもある。
常日頃なにかに祈ったり願をかけたりする我々は、心のどこかで、神や宇宙や、天使や悪魔や、その他目に見えないもののサポートがあって、願いや夢が叶うと信じているところもある。しかし、決して外的要因だけで願いは叶うものではないと思う。
「願いや夢が叶う」ということは、どういうことだろうか。突然何か魔法のような力で、降ってくるようなことなのだろうか。私は「願いが叶う」とは「条件がそろう」ということだと思う。そしてそれはすなわち、「願いのかなう器」として準備が整う、ということである。

私たちが何かを願うとき、そこにはいくつか「これがそろえば叶う」という条件がミッションのように用意されている。そこに向かうハードルはいくつもあり、時としてそれは自分が思い描いていたものとは違いとても厳しいハードルとなることもある。
例えばバレリーナになりたいと願った少女は、まず肉体の訓練をし、またバレエに必要な道具を用意し、そこにかかる費用も必要となる。そして、志を持ち続けるマインドの強さや、失敗をしても挑戦し続けるあきらめない気持ちが必要となる。またその他にも細かな人との出会いだとか、どのタイミングでどのオーディションを受けるのが得策だとか、そういったことも含めてすべての条件がそろうと、「願いの叶う器」は整っていく。
そしてその整った器に、その願望が注がれるとき、はじめて目には見えないものが私たちにささやいてくる。「これが本当にお前の願いだね?」と。
別の例えとして、ある国の王子が「父王よりも立派で愛に満ちた平和な国を作る王になる」という願いを持っていたとする。この場合、その器の完成までに必要なことは細かくわからない、というのが願いの真のシステムである。
その条件の中には、「時が満ちる(戴冠)」というものや王子自身の「王にふさわしい器の完成」が必須項目となる。それは王子が思い描いているような中で育まれたり鍛えられたりするのではなく、別の形でミッションとして現れるものを解決していく必要があることもあるのだ。例えば父王のように立派な馬に乗って国中をめぐることを王子が思い描いていたとしても、父よりも立派で愛に満ちた王になるために、与えられるのは子犬かもしれない。
その子犬とともに国中を旅することが、王子をより立派で愛に満ちた王へと育てる手段かもしれないのだ。
なかなか器が完成しない、時が満ちないとき、私たちは迷い、自信を無くす。でもそんなときこそ、神や宇宙や、目に見えない存在に願をかけに行くのではなく、「私はこのように生きていきます」と宣言しにいくことが大切だ。あちら側はきっと、「あと3つクリアしたら叶うな」とか「もう器は完成している!あとは受け取る、と決めるだけだよ」とわかっているのだから。

私たちの中に生まれる願いや夢というのは、どこからくるのか。
それを叶えるということがこの地上に何の意味があるのか。
それはきっと、その人一人の満足のためでなく、周りの人や人類、地球にとって意味のあることだから、心の中に生まれるのではないかと私は思う。だからこそ、心の中に生まれた願いや夢は、誰かに残酷に摘み取られるべきものではなく、それを叶える器として成長していくことを応援されるべきものなのだ。
新年の抱負や、願いや夢の光が輝いている年の初め。たくさんの願いを託された神さまたちは、それぞれが「願いの叶う器」を育む新しい冒険を始めることを、ワクワクして見守っていることだろう。そう、願いごとも未来もすべて、その手で叶えるのだ、と。





